2011年5月15日日曜日

自ら命を断つ人。
生きたくても生きられない人。
他人に命を絶たれてしまう人。
人生を全うし逝く人。

上原美優が自殺したというニュースで、しばし考え事。
自殺反対でも賛成でもないが、自らの手で己の命を奪うには、余程の覚悟と勇気が必要だと思う。

一方で、「今すぐ健康に影響はありません。」と騙され、放射線の暫定基準値がなし崩し的に変更になっている現在。
あと、十数年後には「国家の大量殺人」ともなりかねない状況かもしれないのに「死」を感じない今。

「死」ぬなら、自ら決めるのと騙され続けるのとどちらがよいのだろう?

2 件のコメント:

  1. どうも私たちは「誰もがいずれ死ぬ」ということを忘れがちです。

    これが現在の社会が隠蔽していることで、一番罪深いことだと思います。

    昔の私は、「死ぬこと」よりも「生きること」のほうが辛く見えていました。だから、辛いのならば死ぬ権利を与えるべきだと思っていました。

    半分はいまでも思っています。「生き様」とは「死に様」であり、「美しく生きること、潔く生きること」は、「美しく死ぬことであり、潔く死ぬこと」だと思うからです。

    ただ、この考え方は、他者との関係が隔絶しているものの意見であり、そんな選択をしなくてもいずれ人は死ぬのである、という万人が保有する原則を無視した考えです。

    まあ、有り体にいえば若造の若気の至りでしょうね。若い頃は、もっとも自然死から遠いから。

    自分が納得のいく生を送っていないのであれば、死ぬのではなく、逆転を狙うべきです。逆転を狙い続け生きる様は、途中で無念の死を遂げたとしても、美しいものです。

    信玄を見よ、信長を見よ、龍馬を見よ、です。

    ただ、個人差がありますが、個々の人間に限界値があります。彼女の場合それを越えてしまったんでしょう。

    責められないし、ご冥福を祈るのみです。

    罪深いのは、国家によるジェノサイドを、無知と保身を原因とした隠蔽によって行うことでしょう。今回の東電と政府の一連の行動は、本人達が思っているよりもずっと罪深いと思います。子どもが犠牲になるのは、なんとも痛々しい。高濃度の放射線のなか、福島の子どもが普通に公園で遊んでいたらしいですからね。

    まさに、もうすぐ引退をする人間の発想です。晩節を汚したくないというね。ただ、晩節を汚したくないのなら、汚れを隠すのではなく、潔く開示すべきでした。

    日本経済の沈滞は、これに起因するのではないかとたまに思います。経営者の多くは、「もうすぐ引退する人間」ですからね。

    「美しく、潔く死ぬ」のは難しいことです。

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  2. 補足です。
    5ブロックの「この考え方」は「昔の私の考え方」だと思って下さい。

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